大鳥圭介~大鳥圭介~1833年(天保4年)2/28生まれ 諱は純彰。号は如楓。 父は尼崎松平遠江守家来大鳥直輔。 海陸軍兵書取調方出役を経て慶応元年直参。 4年2月に歩兵奉行。 蝦夷共和国陸軍奉行。土方さんの上司。 播磨国赤穂郡の医者の家に生まれ説もあり。 大坂の適塾で緒方洪庵に師事。 大村益次郎・福沢諭吉らと同門。 そこで西洋医学、オランダ医学を学んだはずが、なぜか軍学者の道へ。 伊豆韮山の江川太郎左衛門に兵学と砲術を学ぶ。 その後幕府に召抱えられ1866年(慶応2年)開成所で蘭学の講師を務める。 その前にも江川太郎左衛門の塾で教壇に立っているが、ここの生徒に後の敵軍総大将、黒田了介(清隆)がいたというのは笑えない事実である。 歩兵奉行に抜擢される とんとん拍子に出世した大鳥はフランス陸軍士官から訓練をうけた「伝習隊」を組織。 戊辰戦争勃発後、降伏を潔しとせず、伝習隊の一部をつれて脱走。一路日光を目指す。 その途中、幸か不幸か土方さんたち新撰組と遭遇。 大鳥を指揮官、土方さんを参謀として北上。 日光を経て会津へ行くがその軍備の差には勝てず敗走。 仙台で榎本たちと合流し蝦夷へ。 蝦夷では陸軍奉行の職につき、戦場でも指揮をとるが連戦連敗。 負けても負けても笑って帰って来たという。 そして明治2年5月18日降伏。 「ここは一つ降伏と洒落こもうか」と言って榎本さんを説得したとかしないとか。 降伏会見の時にわざわざ呼ばれたのは黒田の個人的恨みのせいか? 自分の設計した牢屋に投獄され、腹の中に体長数メートルのむしを飼うなどの苦労はしたものの、出所後は他の幹部ら同様新政府に出仕。 開拓使五等出仕・清国駐在特命全権公使・枢密院顧問官など歴任。 華族女学校長となり開拓使御用掛や工部省工部頭、学習院院長を歴任。 慶応4年4月の国府台から獄中までの日記「南柯紀行」は大鳥さんの人柄が見えて楽しい。 そんな大鳥さんも病には勝てず、食道癌で明治44年6月15日、永眠。79歳。 お墓は青山霊園。円通寺にも碑があります ちなみに箱館の碧血碑は大鳥サンの書だとか。 戦争中から獄中までの日記が「南柯紀行」。 食べる物がないとか、自分のやり方がまずくて負けたとか、獄中では枕元をねずみが走ってるとか、結構いやかなり楽しい日記♪ 徳川幕府の最後に殉じた立派な幕臣。だが「実は学んだヨーロッパの兵学を実験したかっただけ」と見る人も多いとか。 そういう人らしい ジャンル別一覧
人気のクチコミテーマ
|